命の継承
今日はお盆ですね。熊本は8月盆が多いようですが、地域によっては7月の場合もあります。いずれにしても、先祖を偲び・敬う・・古来から続く大切な行事の一つです。せっかくですから、今日は命について考えてみましょう。
私たち一人一人の命は、父母の存在があって誕生しました。父母の命は、祖父母の存在があってこそ。そしてそのまた曽祖父母がいて・・・魂はこうして連綿 と続いてきました。「自分」という存在は、こうして受継がれてきた結果なのです。だから自分の命は自分のものであって、自分だけのものじゃない。先祖が あってやっと成立した命なのです。こう考えたら、あだやおろそかにはできないでしょう?
命の尊さをもっと体感するためには、ルーツをさかのぼって見ることをお勧めします。自分の家の系図を見て「祖先探訪」をすることで、先祖を敬う気持ちが芽生えたり、自身の命の重さ・大切さを実感できます。一度調べて見て下さい。
さて、最近の重大事件の一つに、秋葉原で起きた「無差別殺傷事件」があります。通りすがりの縁もゆかりもないはずの人たちが、名前さえ知らない犯人に、 一瞬にして尊い命を奪われました。本当に忌むべき事件でした。この事件で奪われた命は、言うまでもなく、お一人お一人が尊くて、かけがえのない存在でし た。この方々の命の連鎖を考えれば、未来永劫ずっと続いていくはずだったわけですから、この犯行は多くの命の連鎖をも断ち切ったことになります。
この事件でお亡くなりになった方々の供養に、今も多くの関係者たちが秋葉原を訪れています。そして、都によって設置された献花台に、お花やお菓子、飲み物など、生前好きだった品々を気持ちと一緒にお供えしていくのです。
ところがこのお供物を、「失敬」する輩がいると言うのです。それもちょっとやそっとの数じゃない。その人たちの言い分としては「どうせ捨てるんなら、も らってもいいでしょ?」・・と実に雄弁です。全く罪の意識などなく、それどころか「合理的な対応だ」といきまく。非常に由々しき問題だと胸が痛みます。
確かに一定期間経過後は「廃棄」される「モノ」です。でもお供物として捧げられたこれらの品々はモノであってモノじゃない。大切な人を失った方々の故人 に向けた「尊い気持ち」なのです。単なるモノとしてしかとらえられない人たちの暴挙を見るにつけ、「モラルの低下」などという簡単な言葉で解決できない問 題の深刻さを感じます。尊いはずの命でさえ、モノのように扱われている気がしてなりません。
私たちが生きているのは、魂があるからです。ではその魂は、亡くなった途端に消滅してしまうのでしょうか?「あの世」と言われる世界があるとするなら ば、その存在は見えなくとも、私たちにつながる多くの魂たちが今も存在しているはずです。大切な命を継承していくには、こうした魂の存在を認め、敬う気持 ちがあってこそ適うのではないか・・お盆の最終日に、ふとそんなことを考えたりしました。